純米一合冷やで

酒がうまい

谷の底から聞こえた声

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山になかなか行けないので、今まであまり人に話さなかった山での出来事を備忘録程度に書いてみる。なお、タイトルから想像できる通りのよくある話で、オチもない(なのであえて人に話す理由もなかった…)。

 

新潟に浅草岳という山がある。新潟と福島の県境にまたがる標高1585mの山で、晩春はヒメサユリ、夏は高山植物、秋は山頂の草紅葉が有名な山だ。浅草岳は成り立ちで言うともともとは大きな成層火山であって、その頃の面立ちを残す新潟側(ネズモチ平)は緩やかで危険箇所の少ない一般登山ルートとして人気がある。

こういうふうに書くと浅草岳はいかにも雄大で植生に恵まれた優しい山という印象を受けるけれども、よくよく地形図を見ると福島側は全く違う様相になっていることに気がつく。緩やかなネズモチ平の浅草岳山頂を挟んだ裏側には、実は数百メートルも切れ落ちた、岩の露出した崖が何キロも続いている。これは降雪が多い越後山脈特有の地形で、雪食地形と呼ばれている。強烈な偏西風で福島側に吹き溜まった雪が、春の雪解けとともに巨大な雪崩となって山肌を削り、長い時をかけてこの見事な大岩壁を形成したと言われている。

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左上がネズモチ平。浅草岳山頂を挟んで、南西には崖が連なる

2018年の秋、私はこの大岩壁を見に行きたいと思っていた。それでなんとなく登山地図を見ていたら、なんとこの崖沿いを延々と歩いて浅草岳に至る登山道があることを知ってしまった(上図の前岳から南西に伸びる道)。その次の週末にはひとり登山口に立っていて、この土地特有の濃霧に包まれた少し湿っぽい秋晴れの中、この先何に出くわすのかも知らないままに、登山道に一歩踏み出していた。

山頂までの行程は本筋には関わらないのでいちいち書かないが、その景観は期待通り素晴らしいものだった。もやに包まれた赤や黄や橙の幻想的な小径を歩いていたかと思ったら、急にもやが晴れる。目の前には底が見えないほどに深い、深い、厳しい谷が、鮮烈な紅葉の向こうにパックリと口を開けていて、その中で取り残された霧が複雑な気流に揉まれていつまでもくるくると回っていた。そのまま崖沿いに出た道を進むといくつものピークを踏んで行き、緊張感にも飽き飽きしてきた頃、山頂の草紅葉が穏やかに迎えてくれる。緩急のあるすばらしいルートだった。

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ルート全景

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あのピークの崖沿いきわきわを歩く

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山頂の草紅葉

問題は帰り。この崖沿いのルートではいくつかのピークを越えていくが、そのうちのひとつ、北岳をちょうど降りているときのことだった。聞き間違いではなかったと思う。その、何百メートルも切れ落ちている垂直の崖の下から、

お〜い、○×#△@、お〜い!

という男性の声が、はっきりと聞こえてきた。たしかにその険しい谷底から声がした、けれども、あまりに急な出来事だったのでにわかには信じられず、周りの稜線に人がいないか、その人が声の主なのではないか、と辺りを見回す。地図を見るとわかるが北岳のあたりは谷が侵食していて、登山道がちょうど東に開いたUの字になっていて見通しがいい。ぐるっと見渡すとこのUの字の上には下山中の単独登山者が2人見えたが、どちらも声を発している様子はない。というか単独なのにあんな大声を出してたら変だ。

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問題の北岳の谷

やっぱり稜線上の人間ではなかったのか?と思って再び谷を見る。でも、どうしても生きた人間がそこにいるとは思えない。仮に滑落者が助けを求めていたと考えても、あんなところから落ちたら万が一にも生きていられないと思う。念のため、くまなく黒い岸壁に目を凝らすけど、生き物の痕跡は何も見つけられない。2、3分ほど判断に迷って立ち止まっていたが、だんだん、やっぱり聞き間違いだったかもしれないな、という気がしてきた。本当に遭難者だったら、もう1回同じ声が聞こえてくるはず。そうなったら本気で探そうと思って再び歩き出した。

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この写真の撮影場所は北岳周辺ではないが、どこもこんな感じ。この下から人の声がしてきた。

結局その後、声は2度と聞こえてこなかった。もう一つ先のピークで一休みしながら、やはり聞き間違いだったのか、あんなにはっきり聞こえたのになあ、と狐につままれた気分になっていたら、先程北岳の稜線に見えた登山者2人が追いついてきた。2人とも私と同じように休憩を取る様子だったので、つい好奇心で聞いてみた。あの、さっき北岳のあたりで男の人の声聞こえませんでしたか?

答えは意外なことに、一人は聞こえた、一人は聞こえなかったという。で、聞こえたという人に詳しく聞いてみると、私と同じように男性の声でお〜いと、あの崖の真下から聞こえたと。どう考えても、谷底から声がしたとしか思えなかったので、やはり岩壁に人影を探したと。やっぱり聞き間違いじゃなかったのだ!その場にいた3人全員の血の気がさっと引いた。

私たち3人以外にも実は稜線に人がいて、その人が声を発したのではないか、そうは考えたけれど、しかし我々の後ろにはもう誰も見えないし、誰かとすれ違うこともなかった。時間的にも我々3人だけという可能性が高かった。それでは反対側のネズモチ平から登った人が、山頂で遊びで叫んだ声が届いたのでは?とも思ったけど、山頂の賑やかな声は、いくつかのピークを超えた時点ですでに聞こえなくなっていた。ましてやそこから遠く離れた場所で、あんなにもはっきりと聞こえるとは考えにくい。いったい誰の声だったのか?

可能性としてはとても低そうだけれど、万が一、遭難者が発したSOSという説も捨てきれなかった。生存可能性はともかく、滑落のリスクは高いルートだ。そんなことを考えていると、私と同じように「声」を聞いた方が「先に降りるので帰り際に駐在さん(交番)に念のため言っておきますね」と申し出てくれた。登山届と照合すれば、遭難者かどうかは洗い出せるし、助かる可能性もある。それではそうしましょう、よろしくお願いします、ということで解散し、各々のペースで下山した。私が一番遅かったので、下山した頃にはもう2人ともいなかった。

その後、私はその不思議な出来事がどうにも忘れられなくて、その日から1ヶ月くらいは毎日インターネットで遭難の情報について検索し続けた。しかし幸いなことにその努力は無駄に終わり、浅草岳で遭難したという話はその後出てこなかった。よかった、あの時、誰かが遭難していたわけではなかったのだ。あの谷の底から聞こえた声の主は、生きて助けを求めている人ではなかったということだ。